昨日の講演を聴いて、ふと思い出した一冊です。
ぜひ、ご一読を。
まずは、〈「家族」とはなんなのか〉より
・・・かたちに流れると、お互いに生の感情でぶつかりあってやっていくという部分が、かえって薄れてしまうように思われるからです。たとえば、昔は、入学式に出席する父親などめったにいませんでした。けれども、家に帰れば、子どもを怒鳴ったり、引っぱたいたりする生身の父親がいました。そこには、生きていることを実感させられるような感情のぶつけあいがありました。いまは、むしろそういうのを避けるために、かたちのほうに懸命になるというふうになっていて、親のほうがそれを免罪符にしているような面も感じられます。「入学式にも行ったじゃないか」「誕生日会だってやってやったじゃないか」と。そして、むしろ、それがむずかしい問題を引き起こしているような気がしてなりません。・・・
つづいて、 〈ほんとうの父性〉について
・・・本来の意味での父性というのは、日本の歴史にはなかったことです。だから、父権の復活ではなくて、私たちは父性をつくりだしていかなければならないのです。・・・父親がいなくても家族が動く時代です・・・これからは、的確な判断力と強力な決断力、不要なものはどんどん切り捨てていくくらいの実行力を持った父親が必要なのです。だから、言うならば、家から一歩出たら農耕民族で頑張り、家に帰ってきたら砂漠の遊牧民で頑張る―――父親として頑張ろうと思う人は、このくらいの自覚を持って努力していかないと無理でしょう。・・・
そして〈理解ある母親〉として
・・・悪い成績をとってきても、母親が少しも怒らないで、「次に期待しているわよ」とか言ったりすると、家の中がどんどん氷のようになっていきます。・・・「なんなの、この成績は!」と言ってやったらほんとうの親子になるのに、そこをぐっとこらえて、「次に期待する」などと言っているから、心のほうがどんどん冷たくなっていくのです。そして、子どもは、その冷たいところだけを敏感に感じてしまうのです。・・・子どもは親の素直な感情を知りたがっているのに、それを隠してしまうから、お母さんがほんとうに生きているのかどうかわからなくなるのです。・・・「塾に行きなさい」「家庭教師をつけましょう」と、怒鳴り散らさないで、こういう対応をする親がとても多くなりました。・・・
家族・父親・母親、それらについて、単に過去の価値観を押し付ける風ではなく、現状に照らしての「不易流行」の視点は、多くの示唆に富んでいます。