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「我思う、ゆえに我あり」@男子部中学3年《私の思うこと》.

投稿日2012/2/23

ひと雨ごとに春が近づいてくるようです。
また、雨は浮き足だった大地をしっかりと固めるものでもあります。
 
「私の思うこと」も3年目。
 
その発表からは、自分の思いを揺るぎなくきちんと伝えようとする3年生の、たしかな心の成長を感じ取ることができました。
 
※ 以下、発表順に掲載
 
 
◆ Y.T (1組) 今、私の思うこと
 
…この久我山に入った当初は、校則もふくめいろいろと厳しい学校だなと思っていた。しかし、こうして3年生になってみてそうした生活意識を向上させていくことは、とりもなおさず将来社会に出てからの準備として身につけるべき大切な習慣であることを実感している。さて、私は高校でサッカーを続けるか真剣に悩んだ。そんな時、ともに部活をやってきた友人が「ここまできたらやるっきゃないっしょ」、さらに親が「サッカーやめるなら高校へは行かせないつもりだったよ」と言ってくれたことで迷いは吹っ切れた。今は、人生を左右するような言葉を私にくれた人、お世話になっている周りの人々に感謝する毎日である。
 
〈所感〉
言葉のもつ力は計り知れない。また、そこから得られる自己暗示の力も。あきらめかけていた自分を奮起させてくれた周囲の人に今度は頑張ることで恩返しだ。
 
 
◆ M.K (4組) 目 
 
…この3年間を一言でまとめることは至難の業である。そもそもこの企画は、そうした自らの生活体験から得たものを気の利いた警句に換言する作業のようなものかもしれない。そこであらためて辞書の中から今の自分に合った一言を拾ってみた。結果、見いだしたのは「目」、それは自分自身でもこの3年間で「視野が広がった」と思うから。人を思いやり、あふれる情報を精査したりと、自分のことだけで精一杯だったかつての私とは確実に違ってきたように思う。「目は口ほどにものを言う」とも。人に自分の真意を伝え、受け取るためにも、相手の目を見て話すことが大切である。加えて、こうして辞書を引くという行為もまた、視野を広げることにつながったといえよう。
 
〈所感〉
百足虫は一本の枝にしがみつくことしかできずに命を落としてしまう。視野は広く複眼的思考を心がけたい。いや耳も手も足も、広く自分を解き放て。
 
 
◆ G.M (6組) 虚像を引き寄せるために
 
…今、たまらなく自分の将来のことが気にかかる。果たしてダイヤモンドのような存在になれるだろうかと。(今や国民的アイドル集団ともいえる)あのグループのセンターをつとめる彼女も、当初からその才能に恵まれていたわけではないという。歌もダンスも、そのプロデューサーの眼中にはなかったらしい。さらに、いまだにファンの評価は二分され、相変わらずアンチも多い。このことは何を意味するのだろうか。どんな世界でも、トップに立つものは、それだけ敵も多くしたがえるという代償をはらうことになるのだろう。これから自分の前にはたくさんの物や人物といった壁が立ち塞がるに違いない。そうした中、嫌われることを恐れず自らを貫く強靱な意志を大切にしたい。
 
〈所感〉
歴史的にみても大人物には敵が多い。意志あるところ道は通ず。リスクを恐れず貫くべし。ただし、その実現に向け人一倍陰ながらの努力を重ねることもお忘れなく。
 
 
◆ T.U (2組) 知りたがり屋になろう
 
…二学期の国語の授業で読んだ『種をまく人』(ポール・フライシュマン)の中に、印象的な一節があった。「あの時は、あなたとは知らなかったから。」お互いを知らないということにより、人は人を理解できなかったり、あるいは誤解してしまったり。また、先の震災にしても、科学的に「知らない」ということが被害をより大きなものとしてしまったともいえる。先人は、そうした私たちの「無知」を補うために、本を読め、旅をして体験を積め、等々、「知る」ことのすすめをしきりに説いている。まずは、私たち自身が、「知る」ことに対して敏感になることがなにより大切だと思う。取りも直さず「知る」ことは、生きる意味を模索することにつながるのだから。
 
〈所感〉
孔子は言った。「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。」知ることの喜びと知らぬことの怖さをともに受けとめることで人は成長する。
 
 
◆ H.Y (5組) 3・11
 
…わたしは福島の郡山にてその日を迎えた。ちょうど卒業式の練習中だった。しだいに吹雪が舞うなか、続々と避難してくる住民たちでグランドはいっぱいになっていった。ちょうど私の誕生日でもあったが、とてもそれどころではなかった。その後、家族の安否を確認して少し安心を取り戻したものの、つづいて目に見えない放射能の恐怖におそわれることとなった。そして、3月18日、母は福島を出ることを決意し横浜へ。転入試験を経てこの「久我山」にお世話になることが出来た。地震や津波といった災害がもたらすものははかりしれない。そうしたなか、今はあたりまえのことをあたりまえにできる幸せに感謝する日々。これからは感謝される人間になりたいと思っている。
 
〈所感〉
人の縁(えにし)を感じる。震災は人々から多くを奪い去った。しかし、一人の青年に得がたい久我山生との生活をもたらした。「逆境は美徳をあらわす」とも。
 
 
◆ Y.I (3組) たかが挨拶、されど挨拶
 
…「おはようございます」「おつかれさまでした」・・・一見意味のないように見えるこれらのあいさつ言葉も人とのコミュニケーションを円滑にするためにはとても意味のあるものだ。そもそもあいさつはなんのためにあるのか。ひとつには、相手に敵意を抱いていないことを示す手段でもある。つまりは友好、求愛の印でもあり、安心して人間関係を結べるきっかけになる。また、仲間にもっとも短い言葉で自分の意思を伝えることを可能とする手段でもある。「世界の不幸は仲間が誰もいないということ」といったのはロマンロランだが、現在崩壊しつつあるこの国の共同体を修復するためにもあいさつは不可欠な要素と考える。人の印象をも左右するあいさつを侮ってはなるまい。
 
〈所感〉
日本人は伝統的にあいさつの場でのスキンシップを好まない。それなくしても以心伝心のなれあいの関係が成り立っていたから。しかし今の日本は・・・嗚呼。 
 
 
  
  我思う、ゆえに我あり      司会をつとめてくれた
                      A.S君とK.H君

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