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You may take a horse to the water, but ・・・.

投稿日2012/1/10

・・・ you can’t make him drink.

 
年改まり、いよいよ年度の締めとなる三学期がスタート。
その始業にあたり、まずは岡部校長先生から全校生徒に向けて・・・
 
「・・・元日には、國學院大學の歳旦祭に臨み、皆にとって今年がよい一年となりますようにとお祈り申し上げてきました。
また昨年の数々の災禍を思うとき、今、時代は合理性追求から、真の豊かさや心の潤いを重視する姿勢に転換がはかられていることをその復興のありようから感じることができます。
ほかならぬ本校では、草創期からその心の力を養うことを教育の一つの柱として歩んできました。
昨年亡くなられた名誉校長、佐々木周二先生は、その昔よく次のことわざを例に採り、生徒諸君の自立心をうながしたものでした。 
『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ますことはできない。飲むか飲まぬかは一にかかってその馬次第である。』 と。
どうか、今年もお互いに明るくあいさつを交わすことができる学園で在り続けたいと思っています。みなの健闘を祈ります。」

 

あらためて、話の中にも出てきた
故佐々木周二先生の『私学の歳月』を手にとってみました。
その中に、ちょうど今から五十年前、
昭和三十七年(一九六二年)の年頭にあたり、
その所感を述べた一節がありました。
さすがに半世紀を経て、
国際情勢やかかえる諸問題はその時代を感じさせますが、
おどろくべきことに、
必要とされている人としての器量や
あるべき姿勢といった人間力については、
現在のわたくしたちにも通じるところであって
見事な普遍性を有しているのでありました。
 
少々、長くなりますが、全文ご紹介いたしますので、ぜひご一読ください。


  抄録新版 『私学の歳月』
     名誉校長 佐々木周二先生を偲んで
     語り継がれる教育論 
             本校同窓会「久我山会」
             平成23年10月23日 発行 

 
   年頭の感  〔昭37・1〕       佐々木 周二
 年が明けて、いよいよ一九六二年、昭和三十七年である。いつものことながら、新春を迎えて何とはなしに心あらたまる思いのするのは、私だけではあるまい。長年の人間の生活から生まれ出た、「心機一転」の姿勢だろうか。テレビ・ラジオの新春の特別番組、新聞・雑誌の特別の編集ぶりが、これに一層の拍車をかける。これを別にわずらわしいとも思わず、すなおに受け入れられるところに、そんな心がまえが、うかがわれる。
 新聞を見ても、ラジオを聞いても、世界の平和と人類の繁栄とを、祝福し祈願しないものはない。私もそれには全面的に同感であるが、ただ一つそうした傾向の底に流れる肝心の一点に、何か物足りなさを感ずるのである。
 平和愛好よし、人類文化の進展また歓迎すべきだが、多くの論議を聞いていると、あまりにもそれが他力本願で、みずからの力でこの具現に努めようとするのでもなくーー少し誇張に過ぎた言い方になるかも知れないがーーただ手をこまねいて「米ソの対立の和らぐように。―-世界の平和はかかってここにあるのだから」と祈っているに過ぎないという感がある。米ソの融和が世界の平和確立の大基盤であることは、私も認めるにやぶさかではないが、いたずらに祈ってばかりいて、事が成就するものであろうか。なぜ、それが実現するように、日本は日本なりの努力を払わないのか。私の物足りなさはこの点にある。
 
私は今、国の政治政策について、かれこれ言おうという気持ちもないし、またそんな立場にいるものでもないからさしひかえるが、ただ、そういう立場にある人々が、もう少し目を開いて、日本の平和を守り立て、ひいては世界の平和に貢献するというふうに、なぜならないか。選挙目あてのゼスチュアに終始したり、話し合いの土俵を外に、いたずらに相手の攻撃に終始したり、わが仏尊しで、自分の主張以外に真理はないと盲信的に闘争をくり広げるだけでは、どこに平和の出現が得られようか。
 自分の意見の無理押し、反対のための反対、国をまっ二つに割るおそれこそあっても、それは平和の土台を築き上げる所以ではない。自国の平和なくして、世界の平和はのぞめまい。もう少し、信を相手の腹中に措いて、国民としての土俵を固め、その土俵の上で、互いの意見を闘わすというわけには、いかないものか。
 町のそこここで「子どもを酒やたばこから守ろう」とか「暴力から守ろう」とかいう立看板が強く目をひく。当然のことばである。その当然のことが、教育界で真剣に取り組まれているであろうか。喫煙問題一つをとり上げても、ある学校では厳に、ある学校では緩に、あるいは放置の状態にあったりである。「何々問題」「何々反対」と闘争に血眼になる前に、教育者は、真に一致団結してあたるべき第一線を、見のがしてはならない。
 お互いに一つの土俵を確立して、その上での意見の論争なら、大いにやるがよかろう。それは破壊することでなく、育てることになるのだから。相手の立場を考える余裕もない狭量が、どうして明るい平和の世界を生み出すことができよう。私は世界の平和を念願する前に、国の平和を念願する。
 今の青少年が、互いに信じ合って他人の立場を理解し、良識をもって自他の意見を処理して行くというふうに成長してくれることを、私は願っている。
 ことしの一年も、私はこの願いの達成に全力をかけよう。こういう青少年の育った暁にこそ、国の平和も、人類の幸福も、間違いなく築き上げられるであろうと思うからである。

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