季節の歩みを一気におし進めるような秋雨がしとしとと降り注ぐ中、中学生全員が体育館に集まり「生徒会各種委員」の任命式を主とした朝礼が行われました。
その中で、校長先生から次のような趣旨のお話が…
「私たちはよく『普通は・・・』という言い方を耳にすることがあります。
そうした時に発せられる『普通』とは、そもそもどういう意味なのでしょうか。
『常識』? あるいは『スタンダード』? そんな言葉と重なるものかもしれません。
先日、他校の先生方との会合でも、この『普通』ということが話題にのぼりました。
その場では、行き着くところ、人にはそれぞれの感じ方や考え方があり、
必ずしも、自らが思う『普通』がそのまま相手にとっても同じ『普通』とは限らない
ということに落ち着きました。
そんなこともあって、今後は『普通』という言葉を軽々しく口にするまいと思うようになりました。
皆さんは、この『普通』という言葉、どう思いますか?」
このお話を聞いて、あらためて人が「普通は」と語り出す場面を思い描いてみました。
誰かが「普通は」と言い始める時、大抵はその人にとってそれから言おうとしていることが正しいということを前提にしているように思われます。しかも、世の中の多くの人が同じように思っているに違いないといった思い込みまでもが含まれているようです。
これと同じような言葉遣いには、他に「世間では」とか「一般的には」といったものがあります。
さらに進んで、「・・・は常識だから」といった言い方まで登場することも…。
しかし、よく考えてみればそうした言葉の定義は、いずれもその世の中にあまねく通用するものであるというよりは、あくまでそれを口にするその人自身の価値観によるものであることは明白です。
かのアインシュタインも、「常識」をこんな風に捉えています。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
(常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことである)
そうであるとしたなら、「普通は」といった言い方は、身近な他者や大きな世間を巻き込むことで、自分の偏見に満ちた考えを無理矢理に押し通そうとする弱き者の自信のなさの現れともいえそうです。
ならば、できる限りそうした場面においては、「普通は」と逃げるのではなく、あえて「私は」と勇気をもって切り出すようにしたいものです。
その上で、相手もまた独自の考えをもった存在であることに敬意をはらいつつ、お互いを認め合うことができれば申し分ありません。
かの『七つの習慣』では、第五の「習慣」として、「理解してもらうために理解する」のではなく、あくまで「理解してから理解される」ことが大切であると指摘されていました。
さらに、アドラー心理学の『嫌われる勇気』・『幸せになる勇気』には、自分自身の価値を他者に決めてもらうことは依存した不自由な生き方であり、反対に自分自身が決定することこそ、「自立」なのだとあります。
以上、今朝の校長先生の問いかけに、「私は」こんなふうに考えてみたのでした。
花の活け方には細かな「常識」としての「かたち」がある。
だからといってそれらは皆同じ「普通」の作品とはならない。
杯ごとに花も草もそれぞれに自己主張してやまないのだ。
〜女子部特別講座 10/13 中学2年「華道:かたむけるかたち」より〜