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法学部で学ぶということ.

投稿日2007/11/19

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本日の放課後、高校3年生を中心に、法学部を志望する生徒対象にガイダンスが行われました。
 
講師は、國學院大學法科大学院 教授
平林勝政先生
 
まず、先生ご自身がなぜ法律を学ぶようになったのかというきっかけからお話が始まりました。
それは、一冊の本との出会い。
 
  末弘巌太郎『法学入門』(日本評論社)
 
もし、この本との邂逅が得られなかったら今の自分は存在していなかっただろうとまでおっしゃっていました。
ところで余談になりますが、この法学者末弘巌太郎については、政治学者として名高い丸山真男もまた大きな影響を受けていることは、「権利の上に眠る者」というフレーズとともによく知られているところです。
 
 
  以下、本日の講話の要旨をたどってみましょう
 
・・・・・・ 
ところで、「法的なものの考え方」とはいったいどのような考え方のことをいうのでしょうか。
 
 人はすべて死ぬ。
 ソクラテスは人である。
 ゆえにソクラテスは死ぬ。
 
「法的なものの考え方」の一つに、こうした「三段論法」の論理をあてはめることがよくあります。
 
このとき、「人はすべて死ぬ」に相当する「大前提」が法的には「法規」にあたります。続いて「ソクラテスは人である」という「小前提」「事実」に、そして最終的に導き出される「結論」としての「ゆえにソクラテスは死ぬ」は、「判決」になるわけです。
 
ならば「法的に考える」とは、いわば自動販売機にコインを投入して品物を下から取り出すようにすでに決まりきった道筋をたどって、つまり、いかなる「事実」を前にしてもすべて既存の「法規」に照らして「判決」を導くような通り一遍の学問なのかというと、そうではありません。
 
もしそうなら、たとえば「憲法9条」に照らして「自衛隊」の派遣は「違憲か、合憲か」といった論議は起こりようがありません。
また、「脳死」の取り扱いをめぐる論議もしかりです。
 
では、なぜ「法的なものの考え方」が絶対的なものになりえないのかといえば、「法規」のわずか一文の解釈も、「事実」の認識の仕方も、実にいろいろな解釈が成り立ち、多義的であるがゆえに「判決」もまた、一筋縄には下せないものだからなのです。
 
しかも、どんな「結論」(判決)も法律の世界では、それが「正しいか正しくないか」というものさしではなく、あくまで「妥当であるか否か」という考え方をします。そして、その「結論」「妥当であるか否か」を決めるのは、一にかかってその人の「ものの考え方」、すなわち「価値観」にほかならないのです。
 
そこで、この大切な要素となる「ものの考え方」や「価値観」というものは、どのようにして構築されるのかといえば、ひとえに「法律」のみならず「法律」以外の勉強、さらには生活上のすべての「経験」が血となり肉となります。
 
つまりは、すべての勉強、すべての経験が、法学の素となるのです。
・・・・・・
 
 
以上、こうした法学にとどまらず、いかなる「学問」も実のところ、それぞれの領域に限られた偏狭な「ものの考え方」によらず、「統合的」かつ「横断的」なものであってこそ成り立つという真理にふれることができた参加生徒たちは、まことに幸せな時間を過ごしたといえましょう。

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