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女子部前期課程(中1・2) 「今、私の思うこと」全体発表.

投稿日2011/3/4

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     一年生           二年生
 
中学生の「今、私の思うこと」全体発表会も本日の女子部前期課程で最終となりました。
「姉」の思うことに関心を寄せる「妹」たち。
「妹」の思うことに感心を隠せない「姉」たち。
さらに友人のために腕をふるった題字のすばしらしさにも感嘆の声がもれていました。
 
夏目漱石が何を今さらと嘲笑してやまなかった(『吾輩は猫である』より)名言ではありますが・・・
 
     「我思う、ゆえに我あり」  ルネ・デカルト
 
 

    K.Uさん(1-2) 「破壊してしまった」
・・・この冬、祖父の住む鳥取は大雪に見舞われた。人工透析にも歩いていかねばならず、家族みんなが雪下ろしのため腰を痛める始末。遠く東京に暮らすわたしはもどかしさとともに怒りまで覚えた。こうした異常気象を見逃していてよいのか。私たちに何かできないのか。世の中は、やれ3R運動だ、アイドリングストップ機能のついた車だとか、そうした対策と思われる取り組みが多々見られる。でも、私はこうした動きがどうも好きになれない。たとえばアイドリング機能のついた車を生産するぐらいなら車そのものに乗らなければいいとも思うから。人の欲望や競争心は計り知れない。その挙げ句、権力や優越感を得てさらに人はどこへ向かうというのか。だからといって、アイドリングストップ機能のついた車に乗るなとはいわない。ただ、地球上の他の生き物たちがそうした取り組みをしているだけのあなたをどう見ているのかを問いかけずにはいられないのだ。
 
 【所感】 何事も「対岸の火事」ですましてしまえばこんな楽なことはない。しかし、自分のこととして胸を痛めるとき、人は複眼を手にすることができる。たとえばそれは、人間本位の見方に加えて、他の生物の視点をも・・・。そうした複眼は、物事をするどく射抜きつつも、やさしさに満ちている。 
 
 
    H.Sさん(2-3) 「偶然と必然、そして奇跡。」
・・・こんなことばを耳にしたことがある。「『偶然』が重なると『必然』になる。『奇跡』になる『必然』はある」と。私は思う。その『奇跡』を起こすには必ず「努力」があるということを。だからといって、「努力」すれば必ず『奇跡』はおこるのかといえばそんなことはない。では、「努力」は無駄か。「努力」することをあきらめてしまっていいのか。ふたたび、私は思う。「努力」を怠れば『奇跡』は決しておこらないということも。ところで、その「奇跡」という代物は、意外に私たちのすぐ近くで日常おきているのではないか。他人からみれば、一見『偶然』の産物としての『奇跡』と思われることも、その人にとってみれば、積み重ねてきた「努力」の結果としてあたりまえなものに過ぎない。みたび私は思う。この世の『必然』による人やものとの出会いを大切にしつつ、身の周りに散らばっているであろう小さな『奇跡』にも気付くことのできる人間になりたい、と。
 
【所感】 運を天に任せるといった言い方もある。果報は寝て待てとも。しかし、そうした受身な待ちの姿勢から得られる必然に人はとかく愕然とする。物事に主体的に取り組むこと、それは口でいうほどたやすいことではない。しかし、努力の軌跡こそが奇跡を生むものであるらしい。
 
 
    R.Iさん(2-2) 「新しいもの」
・・・昔からの古きよき文化が刻々と姿を消していくのをみるのはさびしい。年末、単身赴任からもどった父が久しぶりに書斎の大掃除をした。そのとき机の中から出てきたのは10年前に使っていたという「雲形定規」だった。また、最近兄がiPodを購入し、それと引き替えに多くの書物を不要品として処分した。いまや、製図も文学全集もパソコンや携帯の中に収まってしまう。つまり、雲形定規も書物も無用の長物と化したのだ。かくいう私も、新年を迎えたちょうどその時、友達と新春メールを交わしあった。でも、その朝届いた手書きの年賀状に無上のあたたかなものを感じる私がいる。便利という名の下に消えゆく古きもの。片隅に落書きの残っているノート、眠気覚ましのコーヒーがこぼれてついた染みが残った教科書、私はそんなものがいとおしい。便利は人をどんどん小さくしてしまう。私はそうした便利を前に少し立ち止まって考えることを忘れないようにしたい。
 
 【所感】 パソコンや携帯といった代物は、すぐにバージョンアップして新製品がお目見えする。しかし、おもしろいことにそんな文明の利器でさえも易々と買い換えられないのはどうしたことか。すり切れた特定のキーや掌におさまった感触・・・。ものは手垢にまみれることで私の分身になる。
 
 
    H.Fさん(2-1) 「思いやりということ」
・・・思いやりとはなんだろう。この夏、職場訪問の機会を得てある病院へでかけたときのこと。そこは「人の心」にあふれていた。いつも笑顔を絶やすことなく接する介護福祉士の方々。そこで笑顔には二つあることを知る。心からの笑顔とつくられた笑顔。もちろん心からの笑顔は相手の心に届く。しかし、同じ笑顔でもつくられたそれは残念ながら届かない。ところで、よくこんなことを口にする人を見かけることがある。「あれだけのことをしてあげたのになぜ(相手に)伝わらないのか」と。大切なのは、伝わらないことや返してこない相手の存在に憤る前に、まず相手は何を考え何を求めているのかを思いやることなのではないか。「思いやり」を具体的に行使することには大きな勇気を必要とするようにもいわれる。しかし、勇気以上にこの相手の気持ちを察する「想像力」こそがなにより大切で不可欠なものと思う。
 
【所感】 無私の境地といえば大仰か。しかし先人たちは多くこのことに気づいてきた。私心を捨ててこそものの本質に迫れるということを。人であれ物であれその対象への深い思いなくして理解はない。あの芭蕉も言う。「松のことは松に習へ 竹のことは竹に習へ」と。
 
 
    S.Yさん(1-3) 「生きて償う? 死んで償う?」
・・・『モリのアサガオ』というドラマ化もされた漫画作品に出会った。死刑を宣告された受刑者と刑務官との物語だ。私はこの物語を通じて、あらためて死刑制度について掘り下げて考えてみる機会をもつことができた。死刑制度にまつわる現実は、この物語にみられるような心温まるものではない。現在、ヨーロッパでは多くの国でこの制度は廃止されている。アメリカでも22州がその立場をとっている。では、日本はどうだろうか。内閣府の調査によれば、日本の国民の85%が死刑制度を支持しているという。そのほとんどが「被害者」の側に立っての感情的な理由をあげる。そしてゆきつくところ「人を殺した人間は人間にあらず」という考え方が浮き彫りにされてくる。しかし、どんな人間にも人の心は宿っているのではないか。人はいかなる罪を犯したとしても、死んで償うのではなく、死んだ気になって生き、その上で罪を償い続けていくべきなのではないか。
 
 【所感】 人が人であること。人が人を裁くこと。人が生きるということ。人が殺されるということ。人が犯す罪。人が科される罰。・・・・・こうしたことのいずれも、身内におこった出来事としてとらえるときと、世の中の出来事としてみた時とでは心の動揺に大きな違いが生じるのはなぜ?
 
 
    R.Aさん(1-1) 「気付くべきこと」
・・・夏休みのことだったと思う。いつものように母が作ってくれた食事をあたりまえのように口にしながら考えたことがある。それは、児童虐待という悲劇について。この虐待といわれるものには4つの種類がある。身体的、心理的、性的、そしてネグレクト。なかでもネグレクトは、自分の思い通りにならないからといって親が育児の責任を放棄するという現象だ。こうした虐待の深刻さは世代をこえて繰り返されるという連鎖の怖さをもっている。では、この連鎖を断ち切ることは出来ないのか。私たち自身、そうした悲劇に気づくことはできるはずだ。さらに、無条件に話を聞いてもらえたといった、日常生活での当たり前のことについて。すくなくとも私はいつの日か、親に対して「生んでくれてありがとう」と、さらに親として「生まれてきてくれてありがとう」ときちんと言える人間になりたいと思う。
 
 【所感】 育児は育自。そのことは、人でなくでも十分に実感することができる。ペットでも、鉢植えの草花でも。育てることによって、いつしか自らが人として育ててもらっている。ただ、誤解してはならない。この育てるとは、相手を意のままに仕上げることでは決してない。

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