今朝は厳しい冷え込みでした。
周辺の畑はこの冬一番の霜に覆われて朝陽がキラキラと照り映えていました。
そんな澄み切った大気が、ふだんはなかなか目にすることのできない風景を運んで来てくれました。
期待に胸躍らせて駆け上がった本館校舎5階から北方を望めば……
なんと、「男体山」をはじめとする日光の山々や「筑波山」までが見えるではありませんか!
遥かにかすむ 富士筑波
こだまは遠く 人をよぶ
・・・
思いはめぐる 今むかし
広い宇宙にあこがれて
清い心を 深めよう 『久我山中学校の歌』より
見よや首都圏 拡がりて
はろばろかすむ 超高層
富士、丹沢も指呼のうち
若きわれらを 恃まずや
・・・ 『久我山讃歌』より
それにしても、こうした記念歌ではきまって「はるかかなた」を望むような歌詞が詠まれているのはなぜなのでしょうか。
それは、そうした「はるかかなた」の地にこそ「希望」や「夢」といった「理想」の境地があることを暗示しているように思われます。
たしかに、わたしたちの日常生活は、もっと現実的な「近景」の中で営まれています。
目にするものすべてが輪郭もはっきりして、否応なく肉眼で直視することが求められています。
だからこそわたしたちは、時折高みに立って「遠景」を望まんと欲するのではないでしょうか。
とはいえ、実際には今朝のようにクリアに見通せるのは稀なことです。
「遠景」は、本来「肉眼」ではなく「心の眼」をもって想像する「心の景色」であるといえましょう。
まもなく、第2学期も終業のときを迎え、同時に今年もまた過ぎ去ろうとしています。
数値で記された「成績」も、あと数枚にやせ細った「日捲りカレンダー」も、いわば「近景」そのもの。
しかと目に焼き付けねばならない物理的な「現実」です。
しかし、同時に・・・
その「通知表」の片隅に、担任の先生が添えた「所見」の向こう側にある「本当のメッセージ」や
行く年来る年を共に過ごすことのできる「家族」の「愛情」といった
「遠景」にこそ思いを馳せることが今なにより求められているのではないでしょうか。
どうやら、
みなさんの成績を示す数字がずらっと並んだ
一覧表を見ながら会議を重ねているうちに、
「近場」の手元がかすんでぼやけてきたようですので・・・。
あっ、いや決して老眼ではありませぬ。(笑)