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愛と勇気と感謝と…@3/13「被爆者体験談を聴く」長崎にて.

投稿日2016/3/15

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先日の男子部修学旅行において、その最終日の午前、長崎の原爆資料館にて被爆者から貴重なお話をうかがうことができました。戦後70年を過ぎ、年々原爆や戦争そのものの体験を直接にお聴きする機会が少なくなってきています。人類として同じあやまちを繰り返すことなく、また歴史から謙虚に学ぶことをして未来を創造していくためにも、こうした語り部の体験談は深く心に残るものとなったことでしょう。
 
以下、その概略を記し、講師の方への感謝のしるしとしたいと思います。
 
 
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ここ数日は、「3.11」の東日本大震災のことでもちきりですが、わずか5年前のことですら人々の間から忘れられてしまうことがあるなか、まして70年も前のこととなれば…。
しかし、現実にあったことを簡単に風化させてよいものでしょうか。
 
当時の長崎は軍事産業の工場などがひしめく地域で、すでに原爆投下の候補地として有力視されていました。
それもあったからでしょうか、戦局が厳しくなるなか、東京が大空襲に見舞われても、長崎はわずか2度ほどしか被害がないという不穏な状態が続いていました。
 
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それでも、国民生活はどこもみな同じで、日を追うにしたがってその困窮の度は増していくばかり。当時まだ国民学校2年生だったわたしなども、学校でまともに勉強する機会はほとんど与えられていませんでした。
皮肉なことにわたしたちがしっかり習得していたものといえば、空襲警報におけるサイレンの鳴り方の違いを聞き分けることぐらいだったのです。
 
また、食生活も想像を絶する厳しさでした。
今は「ごはん」といえばだれもが「白米」を思い浮かべるでしょうが、当時はまず口にすることはできず、まれに麦などのなかに混じった「ごはん」をして「ほたるめし」と呼んでよろこんだほどでした。
 
そして迎えた8月9日。
朝方母親から叱られ、まだ7人の家族全員が一斉に身を寄せるには狭すぎた防空壕をさらに掘り進めるよう言いつけられました。暑くじめじめとした壕の中の作業がとても嫌で、17歳の従姉にお願いして一緒に手伝ってもらったのでした。
11時前になって、わたしたちの間では「お客さん」と呼んでいた「B29(爆撃機)」が独特の轟音を響かせながら9000mのはるか上空に飛来してきたのを見上げていました。
 
しかし、いつもとその様子が違っていたのです。
何機もの大編隊を組んでやってくるのが常なのに、今日はわずかに2機だけだったのです。
「変だなあ」そうつぶやくわたしを諌めるように従姉は「あなたは死にたいのか!何があってもしばらく壕の中にとどまっているように!」
あとから考えれば、この従姉の指示通りにしたお陰で、その後に生けるものすべてに甚大な影響を及ぼすことになる「黒い雨」を浴びることなく、今こうして生きながらえることができたのでした。
 
ということで、幸運にもその瞬間を壕の中で迎えたわけですが、それでもこの世のすべての雷を集めたような閃光と、地球が一瞬にして砕け散るのではないかと思われるようなものすごい衝撃でした。
それでも、しばらくわたしは従姉の言いつけをまもって壕の中でじっと耐えていました。
 
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しばらくして、静寂がおとずれたとき、壕の外へ出てそこに広がる世界はそれまでのものとは一変していました。
その後、たえだえにしかしはっきりと自分の名を呼ぶ声に振り向くと、そこには人間と呼ぶにはかけはなれたお化けのような姿の父親が立っていました。父は表皮とともに皮膚がただれ落ちる状態で私が無事でいたことをよろこび抱きしめてくれました。
そんな父の最期の言葉は、「天皇陛下万歳」でした。
 
そして、いつものように畑仕事に出た祖母は案の定畑の隅で変わり果てた姿で見つかり、自分の目には元気そうに映った母もほどなくして亡くなりました。最愛の人を失ったその時、悲しみ以上に「これから自分はどうやって生きていこうか」という不安につつまれて、泣くことも忘れていたというのが正直なところでした。
 
それでも幸運なことに父方の親戚の家に面倒をみていただくことになりました。わたしの日課は、家族の生命線とも言うべき水汲みと薪拾いでした。これは一日たりとも欠かすことのできない生活のため家族のための仕事でした。わたしはこうした日々のなかで、幼いながらも単に生きることと確実に生きることの違いを身をもって学んだのでした。
 
そして時はながれ、19歳となったとき、自分の将来に対して三つの目標を定めました。
まずは、学はなけれど、あこがれの会社に絶対入って仕事をすること。
次に、いつかは自分の家を建てること。
最後に、結婚もして家族とともに暮らすこと。
実際には、被爆者というだけで、差別や偏見のなかで苦労することも多々ありましたが、これらの夢を決してあきらめずになんとかその後に実現することができたのです。
 
みなさんにとって、今の生活、家の存在、家族とともにある暮らし、勉強できる環境など、それらはすべてあたりまえのことのように思っているでしょう。しかし、実際には、そのすべてがわたしが経てきたような道のりの上にあるのです。その有難さに感謝する気持ちを忘れないようにしなければなりません。
 
そして、これからの時代を生きるみなさんには、ぜひとも「愛」と「勇気」と「感謝の気持ち」をもってそれぞれの人生を切りひらいてほしいと思います。
今日は、こんなわたしの話をきちんと最後まで聴いてくれてありがとうございました。
 
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