あれから五年の歳月が流れました。
あの日もちょうど学年末試験の真最中でした。
午後2時46分、突然校舎全体がうなりをあげるようにして大きく揺れ始め…。
その時点で学校に残っていた生徒たちは、翌日の試験のために自習していたわずか65名でした。
それでも、家庭との連絡や安否情報の送受信をはじめ、食料の確保や暖をとるための避難スペースの確保など、臨機応変な対応が夜を徹して続けられました。最後の生徒が無事家族のもとに引き渡されたのは、翌朝8時過ぎになってからのことでした。
しかし、そうした時間の経過とともに、東北地方の、後に被災地と呼ばれることになる各地の状況が明らかになるにつれ、この「久我山」での被害がほとんど無いに等しいほどの軽微なものであることがわかってきました。
にもかかわらず、「久我山」でのその時その場のわたくしたちの動揺ぶりをあらためてふりかえるとき、被災地の方々のその後も続くことになる辛苦は今でも想像を絶するものがあります。
五年後の今朝、 学校は臨時に全校朝礼を設け、多くの犠牲者に対してあらためて哀悼の意を表すとともに、今なお復興途上にある被災地への思いをこめて全員で黙禱を捧げました。
そして午後、筆者は二年前にも訪れた「3.11」の古都鎌倉へ馳せ参じました。
それというのも、その震災発生時刻の「14時46分」にあわせて、鎌倉にある神社のみならず、仏教寺院、さらにキリスト教の教会それぞれの指導者らが、おなじ一所(輪番制)に集まり、祈りを捧げるお祭りが催されることになっていたからでした。
《東日本大震災 追悼 復興 祈願祭》 鎌倉 カトリック雪ノ下教会 平成二十八年三月十一日
信仰の対象は異なれど、犠牲となった生きとし生けるものの尊い命を悼み、その後の平和を希求してやまない人の心は、隔てなくみな同じであることが、ひしひしと伝わってきました。
祝詞の奏上も読経の唱和も、今日だけは聖書の朗読とともに、十字架のもとに響き渡ったとき、思わず熱いものが胸にこみあげてきました。
その後、参拝した鶴ヶ丘八幡宮では、あたかもその一年後を予見して警鐘を鳴らすかのように、平成二十二年三月十日未明、これまた自然の猛威である強風に煽られなぎ倒された「大銀杏」の跡をたずねました。
すると、どうでしょう。わずかに残された根元の古株から芽を出した「蘖(孫生え~ひこばえ~)」が立派に石段より高く生長してるではありませんか。
自然は、時に厳しい表情を見せることもありますが、こうしてかけがえのない力を授けてくれる「かみほとけ」のような存在でもあるようです。