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→ こちら〔※「管理人」の気ままな《班別自由行動》含む(笑)〕70枚
「…僕たちは戦争を知りません。原爆の怖さもわかりません。しかし、こうして見聞きし学んだことを通じて次の世代に語り継ぐことはできるはずです。…」
本日は、長崎市内に入って、まず、いの一番に被爆者の体験談を聴く「平和学習」を実施いたしました。
その講話の後、K.H君が生徒を代表して謝辞を述べました。
そして、修学旅行最後の晩餐ののち、学年主任のI先生が、先のH君の「謝辞」を受けて、次のように総括しました。
「…今日一日の研修にとどまらず、この旅行すべてが、H君の言葉のなかに凝縮されているような気がします。
君たちのみならず、私たち大人もすでにその多くが戦争を原爆を直接知らない世代になっています。
そんなわたくしたちにできること、いやだからこそしなければならないことは、彼が言ってくれたように、つまりは《記憶の風化》との闘いなのではないでしょうか。…」
明日の最終日は、あらためて長崎の「平和公園」にて献花、ならびに「原爆資料館」を見学ののち、「来年の健闘」を期して、一路「太宰府」を目指します。
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雲仙から長崎へ。
その途中、たいへん見晴らしのいい千々石に立ち寄るも…
花より団子、景色よりもカステラ!(笑)
被爆者の体験談に耳を傾けました。
講師 中川 知昭 先生
…被爆の時9歳、伊良林国民学校の3年生の私は爆心地から3.3km地点の鳴滝町の自宅で被爆しました。飛来したB29爆撃機二機の内、一機が落としたパラシュートを見て家の中に駆け込んだので、幸い怪我はありませんでした。四日後の八月十三日に父の爆死した浦上地区に、母と2人で訪れ、原子野を目撃しました。被爆後七十年の歳月が流れた今日、「戦争や原爆の恐ろしさ、悲惨さ」を被爆者は語り継ぐ義務があると思います。…
~ 平和の原点は人間の痛みがわかる心をもつことです ~ (お名刺の添え書きより)
ここから、管理人も《自由行動》へ!(笑)
まずは、永井隆博士の「如己堂」へ。
…己の如く人を愛せよ…
※関連記事 → こちら(平成24年3月5日の記事「少年の心」)
浦上街道に沿って…
原爆の威力を思い知らされます。
眼鏡橋にてようやく生徒諸君に会えました!(笑)
龍馬に会いに、亀山社中を経て風頭展望台へ!
長崎といえば…
オランダ坂では、白木蓮が澄みきった長崎の空に映えていました。
大浦天守堂もグラバー園も異国情緒たっぷり!
久我山の「龍馬」たち…
「長崎はわしらの希望じゃ」
(『久我山健児がゆく』より 笑)
稲佐山より一千万ドルの夜景を望みつつ夢の中へ