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高校1年 「弁論大会」 開かれる.

投稿日2009/2/23

毎年恒例の「高校1年 弁論大会」
第一体育館にて5,6時間目に男女合同で行われました。
 
発表者とその演題、および受賞結果は次の通り。(発表順)
 
  1  女子4組 S.K テレビ漬け人間の考えること
  2  女子2組 Y.M 死を想え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最優秀賞

  3  男子4組 K.T 宗教についての問題点
  4  男子7組 Y.S 独裁の終わり
  5  男子2組 S.A 人は生きているうちに・・・・・・・・・・・・・・奨励賞
  6  女子1組 Y.K 若者ヒストリー
  7  男子5組 H.N 新しい久我山の未来図
  8  男子6組 S.F 笑え
  9  男子3組 Y.H マスコミの危険性について・・・・・・・・・・優秀賞
 10  男子1組 R.F いのちについて考える・・・・・・・・・・・・・優秀賞

 11  男子8組 T.N 趣味と勉強
 12  女子3組 W.N 120%の確信・・・・・・・・・・・・・・・・・・・優秀賞
 
5時間目が授業でしたので、駆けつけた時には残り5名の発表となっていました。
最優秀のY.Mさん、および奨励賞のS.A君をはじめ、前半の弁士の発表を聞くことができませんでした。残念!
 
ところで、受賞弁論のほとんどが、「命」や「生死」にかかわるテーマであったことは偶然にせよ、今の世相を反映しているといえそうです。
以下、5名の発表の要旨と所感を記しておきます。
 
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■ 笑え
・・・今は未曾有の「お笑い」ブーム。このことと「うつ病」患者の増加とは密接な関係がある。なぜなら、「うつ病」の原因の多くがストレスであり、「お笑い」はそのストレス解消に役立つからだ。・・・最後に笑える小話をひとつ・・・(場内 笑)。
〔所感〕
ラストに付言した小話によって、会場の「笑い」を誘ったのは何によるのか。それはひとえにその話の中に登場させた人物および場面が聴衆にとってもすこぶるリアリティをもってとらえられたからに相違ないだろう。つまり、ここに「笑い」というものの真髄ともいうべき「リアリティの追求」が潜んでいた。そのことを、奇を衒ったパフォーマンスではなくして見せたなら弁論となり得たであろう。
 
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■ マスコミの危険性について
・・・マスコミの情報が時として操作されていることは問題であるが、それにもかかわらず、私たち受け手の側がそれを鵜呑みにしてしまうのは、より深刻である。・・・今はIT時代。ゆえに、単に情報をおとなしく受け取るだけでなく、自らの意見を発言できる機会を与えられるようになったことは歓迎すべき現象である。
〔所感〕
たしかに、インターネットの普及により、情報の受動的態度から能動的態度への変化をもたらしたということは否定できない。しかしながら、その発信元が、匿名性を帯びながら不特定多数に及ぶことは、これまでのテレビ等をはじめとする所在が明確であった媒体よりもむしろ情報操作の危険性を大いにはらんでいるといえはしないだろうか。何事も功罪相半ばするものであることを肝に銘じておきたい。

 
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■ いのちについて考える
・・・かつて「いのちの授業」を通じて、末期癌患者の方から話を聞く機会を得た。その結びの「そんなに軽い命なら、私にください!」という叫びは、ひどく私の胸につきささった。・・・そもそも命は観念的なものであるがゆえ、とかくその大切さを忘れがちである。身近な存在から、「いのち」の有り難さ、かけがえのなさを感得したい。
〔所感〕
たしかに「命」というものは、目に見えない観念的な代物に過ぎない。しかし、あのサン・テグジュペリは『星の王子様』の中で訴える。「大切なものは目に見えないんだよ」と。ならば、私たちは、目に映ずる具体的な現象や事物を通じてその背後に潜む観念にどれだけ思いをめぐらせることができるか、こうした想像こそが各自の人生を創造する鍵となるといえそうである。
 
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■ 趣味と勉強
・・・私の「趣味」はゲームに興じること。しかし、家庭ではなかなか風当たりが強い。勉強ができないことの要因として「ゲーム」の存在があげられている。だが、勉強ができないのは、ひとえに自分自身の勉強不足が原因である。ゲームそのものとは切り離して考えたい。
〔所感〕
なぜ、これほどまでにゲーム世界や電脳世界といったバーチャルな世界に人は惹かれるのか。それに対して「勉強しなければならない」といった世界は対照的でリアルそのものである。「現実は小説よりも奇なり」とも。ならば、「勉強する」ことのなかに、ゲームの世界以上のゲーム性、およびゲーム的魅力が潜んでいるといえまいか。
 
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■120%の確信
・・・我が家の子犬2匹。その存在はすくなくとも私にとって苦楽をともにする日常そのものであった。年の瀬も迫った冬の日、元気をなくし病院へ。命の保証がないなかでの手術が進められた。そのとき、つくづく思ったことがある。愛するものに対してどんなに心を尽くしても尽くしきれない。常に後悔をともなうものだと。出会ったものとは、いつしか別れねばならない時がくる。だから、共に在る今日を、そして今日どんなに愛ていたかを大切にしていきたい。
〔所感〕
「今」という刹那の尊さに気づくことは、今目の前にいる対象にどれだけ愛情をささげ、また与えられているかに気づくことでもあるだろう。そのような「今」ならしっかりと生きつつ、愛おしむように抱きしめておきたい。対象との関係は、その関わり期間や時間の多寡ではなく、あくまでどう関わったかという密度の濃淡によって判断されるべきであろう。

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