あれから三年。
あの日も学年末試験の真最中でした。
午後2時46分、突然校舎がうなりをあげるようにして大きく揺れ始めました。
不幸中の幸いだったのは、その時点で学校に残っていた生徒が、居残り勉強をしていたわずか65名だったこと。
それでも、家庭との連絡や安否情報の送受信をはじめ、食料の確保や暖をとるための避難スペースの確保など、臨機応変な対応が夜を徹して続けられました。最後の生徒が無事家族のもとに引き渡されたのは、翌朝8時過ぎになってからのことでした。
しかし、そうした時間の経過とともに、東北地方の、後に被災地と呼ばれることになる各地の状況が明らかになるにつれ、この「久我山」での被害が無いに等しいほどの軽微なものであることがわかってきました。
にもかかわらず、「久我山」でのその時その場のわたくしたちの動揺ぶりをあらためてふりかえるとき、被災地の方々のその後も続くことになる辛苦は今でも想像を絶するものがあります。
あれから三年。
今朝、理科会館の屋上から望まれた富士山は、被災地の方を向いてひときわ威儀を正しているように見えました。
学校は臨時に全校朝礼を設け、多くの犠牲者に対して哀悼の意を表すとともに、今なお復興途上にある被災地への思いをこめて全員で黙禱を捧げました。
なお、放課後、わたくしは、学校として数々の行事で利用している古都鎌倉へ馳せ参じました。
それというのも、その地震発生時刻にあわせて、鎌倉にある神社のみならず、仏教寺院、さらにキリスト教の教会それぞれの指導者らが、おなじ鶴岡八幡宮に集まり、祈りを捧げるお祭りが催されることになっていたからでした。
《東日本大震災 追悼 復興 祈願祭》 鎌倉 鶴岡八幡宮 平成二十六年三月十一日
奇跡的に新芽が出たとされる石段横の大銀杏。
そのきりくいを望む境内のほぼ中央にその舞台となった舞殿があります。
信仰の対象は異なれど、犠牲となった生きとし生けるものの尊い命を悼み、その後の世の中に平和を希求してやまない心は、隔てなくみな同じであることが、ひしひしと伝わってきました。
この日の祝詞の朗詠は、つづく御経の唱和や聖書の朗読とともに、それぞれ胸に迫り来るものがありましたが、あの広い境内に、さらに風に乗って鎌倉の町全体に「アメイジング・グレイス」の歌声が流れたときには、思わずこみあげてくるものを抑えることができませんでした。
その後、太平洋の大海原は、どこまでもやさしい表情を浮かべつつ、この日の役目を終えた夕陽をしずかに受け入れる聖母のようでありました。