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柿食へば.

投稿日2022/11/11
2022.11.10 学校のご近所にて

 
 学校のご近所の軒先に、今年も柿の実がたわわに実る頃となった。
 
 
  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 
   
          正岡 子規
 
 
 「柿」といえば、誰の頭にも浮かぶ一句かと思うが、その成立の「前夜」、奈良に旅した宿屋での「女中」とのやりとりを綴った子規の随筆「くだもの」によれば、この鐘は法隆寺のそれではなく、同じ奈良でも東大寺のものである可能性が高いことはあまり知られてはいない。
 
 「やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。」(『くだもの』より)

 しかし、この「随筆」以上に、あえてこの句自体に添えられた「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きの存在もあって「法隆寺の鐘」との認識を多くの人々に与えている。
 
 いずれにしても、「なるなり」である。
 つまりは、この鐘の音は、実際に耳に届いたというより、すでに重い病床にあった作者の心の中に共鳴した「鳴っているように感じた」鐘の音であってもまったく問題はなく、したがってどの寺の鐘でなければならないということもない。
 
 ところで、そうした目に見えないような心に響く鐘の音は、意外にも私たちの身近なところにも存在している。
 
  やよ 打ち鳴らせ
  いざや いざ
  久我山の鐘 打ちならせ
  青春の鐘 打ち鳴らせ
  われらは若し また 強し
  剛健 剛健
  久我山 われら
 
      『久我山讃歌』より
 
 はたして、この週末には「青春の鐘」でもある「久我山の鐘」が、それぞれの決戦の場にあって高らかに鳴り響き、多くの人々の心に感動をもたらすことになるのか、緊張感の高まりとともに期待もまた膨らむ一方である。
 
 とはいえ、相手のある勝負の場にあって、慌てて「泡を食う」ことや、思いがけない展開に「不意を食らう」ことがあってはならないだろう。
 さすがに、真剣勝負の中で「道草を食う」ようなことはないにしても、「人を食う」ようなプレーは厳に慎まねばスポーツのフェア精神に反する。
 
 どうか、この日まで「同じ釜の飯を食う」ことで苦楽をともにしてきた仲間のことを信じて躍動する姿を見せて欲しいと切に願うばかりである。

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