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「落ち葉」に思う.

投稿日2022/11/5


 
 
  木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
 
               加藤楸邨
 
 前庭の芝に「学びの道」の欅並木から、次々に木の葉が舞い落ちるころとなりました。
 この季節になると、校務員さんはじめ恒例となっている早朝の野球部員たちによる落ち葉掃きの姿が目立つようになります。
 
 寝たきりで病と闘う日々の中で、身につまされるような切なる思いを十七音に託した先の俳人とは本質的に異なれど、掃いても掃いても容赦なく降り積もる落ち葉に閉口する気持ちは想像に難くありません。
 
 とはいえ、この落ち葉ほど美しい葉脈をはっきりとそして美しく見ることができる存在はありません。
 この葉脈は、葉の全体に水の行き渡っていることを告げているなくてはならない存在です。そのことをあらためて梢に在る時よりも地に落ちてから思い知るとはなんという皮肉でしょうか。
 
  聴雨寒更尽 (雨を聴いて寒更尽き)
  開門落葉多 (門を開けば落葉多し)
 
      無可「秋寄従兄賈島」より
 
という、中国は唐の時代の詩僧の言葉があります。
 
 秋も深まる寒い独居の一夜、屋根を打つは雨音かと思いながら微睡んで朝を迎える。
 その翌る日、戸を開けてみると、まったく庭は濡れておらず、一面には落ち葉が織りなす美しい錦の海原が広がっていた。
 雨と思ったのは、葉が次々に屋根に落ちる音だと悟ったのだった、といった世界でしょうか。
  
 夏に緑陰を提供してくれたその葉たちも、秋の深まりとともに一見その役割を終えたようでいて、ヒラヒラと散りゆく姿を通して人間の生活にも見られる浮き沈みを映し出すとともに、この上なき美しい世界を演出してくれるようです。
 
 私たちもまた、本当に大切なものを喪失してはじめてその「有り難さ」に気がつくことが多くあります。
 それは、たとえば、勝負事に負けて知ることだったり、別離の末に感じることだったり。
 
 そんな校内に広がる「美観」の中を、今日からはじまった個別面談のために保護者の方々が来校される姿が絶え間なく続いています。

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