6月19日は、太宰治の命日であり同時に誕生日でもある「桜桃忌」。
例年ならば、中学1年生の〈久我山周辺地域探訪〉にて、通学路に沿った玉川上水や隣町の三鷹にゆかりの人物として自由研究の対象となることの多い作家の一人です。
放課後、雨に洗われた三鷹の禅林寺にお参りいたしました。
今年の桜桃忌は、この4月に太宰の長女、津島園子さんが亡くなったこともあってか、例年以上に多くのファンの方々が駆け付けていたように思われました。そして、縁あってこの場に引き寄せられたファン同士、入れ替わり立ち替わりサクランボやお酒などをお供えしつつ熱く文学談義に花を咲かせていました。
「君は、今まで何も失敗してやしないじゃないか。駄目だかどうだか、自分で実際やってみて転倒して傷ついて、それからでなければ言えない言葉だ。何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。」 (太宰治『みみずく通信』より)
生前、新潟の高校に講演を頼まれて出かけた際、その講演後15、6人の生徒と2人の先生たちと地元では有名なイタリヤ料理屋にて食事をすることがありました。
この頃になると、しだいに打ち解けてきたからでしょうか、「だんだんわがままなことを言うように」なってきた生徒たちから、「太宰さんを、もっと変った人かと思っていました。案外、常識家ですね。」という寸評から「自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思いますが。」といった土足のままでずかずかと踏み込んだような問いが浴びせかけられます。
それにすかさず「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」と返した太宰に対して、その生徒がポロリと「じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」とこぼしたのに応じたのが、先の言葉でした。
「…何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ」
ところで、太宰治の斜め向かいには、かの文豪、森鷗外(本名:森林太郎)のお墓も…。
「この寺の裏には、森鷗外の墓がある。どういうわけで、鷗外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」 (太宰治『花吹雪』より)
「…余ハ石見人 森林太郎トシテ 死センと欲ス…」
(鷗外が無二の友、賀古鶴所君に託した「遺書」より)